その声

つばさ 渉

 

公園の入り口にひっそりとある電話ボックス。大きな常緑樹の下、寒空の今日は、電話ボックスの周りでは落ち葉が行ったり来たりしている。
「母さんを心配させるなよ」
「うん」
「元気って言うんだぞ」
「わかってるう」
 小銭入れを首から提げた小学二年の琳は、いつもの様に繰り返す兄に少しイライラしながら頷いた。
「よし、じゃあ、かけるぞ」
 小学五年の空は、琳から小銭を受け取ると、慎重に番号を押した。

「おかあさんにあえるかな、ねえ、おにいちゃん。おかあさんね、りんのことすきだって」
 琳はふざけて大股で歩きながら、手を繋ぐ兄のテンポを崩して楽しんでいる。会えるはずはない、空はそう思っていた。でも母と琳は公園へ行こうとかレストランへ行こうとか話していた。
 空はただ無邪気に喜ぶ琳を見ていた。そんな姿が少し羨ましかった。

 

 

 

両親が離婚して空と琳は父親と暮らしていたが、母親とは電話でいつでも話せたし、琳に至っては月に一度ほど会っているらしい。だから母親が単身赴任をしている様な感じだった。琳が母親に会っていることを最近知り、空は驚いた。
「私、やっぱりお母さんに会いたくてさ。電話した時に会う約束したんだ」
「ふうん……それっていつから?」
 空が中学生になった頃には、二人で電話ボックスへ行って母親に電話をすることはなかった。空と琳がこっそりそこへ行っていた事を知ったのだろうか、父親が電話して構わないと言ってくれたのだ。
「今年の春くらいかなあ」
 琳はのんびりとそう言った。
「ふうん」
 空も母親に会ってみたいと思ったことはあった。会ってどうなるんだと思う一方で、会ったら一緒に暮らしたいと思ってしまう気がした。電話で話すだけなら、そんな気持ちも制御出来た。
 空は月に一度ほどのペースで母親に電話をかけていた。だいたい月末頃。その月にあった事をお互い話す。
「もしもし、母さん……」空は今月あった体育祭の事やクラスの珍事件や部活の事を淡々と話した。
「来年……そう三年。うん、うん」
 母親はいつも通りの優しい声で、はきはきとしゃべった。その声に空はいつも背中を押された。

 

母と話した数日後「お母さん、今の家、出て行くかもしれないって」と琳は言った。
「え!」
 琳が母親と食事をした時に、ふとそんな事を口にしたという。電話で話した時はそんな感じの話は一切なかったな……空は母親との会話や声の感じを思い出していた。

 


 琳に聞いてから間もなく、空は母親に電話をかけた。
「もしもし」
「もしもし。どちら様?」
 母親の声ではなかった。男の声だった。
「あ、ええと、その」
「あ、母さんの?」
「はい。母さんの……」
「あのさ、会えないかな。渡したい物があるんだ」
 電話の相手は母親の再婚相手の連れ子だった。高校二年の浩司。

 

空と浩司は会う約束をした。

 ここ数日秋晴れの日が続いていたが、今日は曇っていて肌寒い。空は鏡の前で青いウィンドブレーカーのファスナーを閉めた。
 空の最寄駅で待ち合わせだった。自転車を走らせる。空は少し緊張していた。
 駅に着き、改札口傍のコンビニ前で待つ。浩司は赤いトレーナーで来ると言っていた。空は辺りを見回したがそれらしい人物は見つからなかった。
 電車がホームに入ってきたらしい、大きな音がする。しばらくすると改札口から人が吐き出されてきた。その人の波が落ち着いた頃に、赤いトレーナーをきた男が改札を出てきた。

 

空は確信し小さく会釈した。浩司は軽く右手をあげた。
「はじめまして」
 浩司は黒縁のメガネをかけ、色白で痩せていた。メガネの奥のキリッとした眼差しで、空を優しく見ていた。
 近くの公園に移動し二人は話した。
「はい、ミルクティー」
「ありがとう、ございます」空は受け取った。缶の温かさが嬉しかった。
「母さんが……出て行くことになってさ」
「……はい」
 琳が言っていた通りだ。
「父さん、しばらく病気してたんだけど。その間、母さんは父さんの分まで働いて、すごく働いて……。俺にも良くしてくれた」
 空は自分の母親が褒められているんだと誇らしかった。僕と琳は寂しい思いをしたけど、浩司と彼の父親を母が助けていたんだと。
「それで、これは母さんが残していった物だよ」
 浩司は紙袋を差し出した。中には絵本と宮部みゆきの文庫本が入っていた。
 宮部みゆきは母の好きな作家だ。家に何冊もあったのに、いつの間にかそれは無くなっていた。
 絵本を開いた所に作者のサインが書かれていた。空くんへ、とある。空は覚えていた。この絵本が大好きで、寝る時に母が読んでくれていたことを。
「わざわざ、ありがとうございます」
 涙が出そうで、空は声が上ずった。


 浩司の家を出てからも、琳は今まで通り母親と会っていた。
「お母さん、一人で暮らしてるって」
 夕食の席で琳は唐突に言った。
「そうか……」父親は一言そう言った。

 琳から母親の携帯番号を教えてもらった。空はすぐに電話をしなかった。落ち着くまで色々大変だろうと思ったから。
 年が変わりお正月気分も抜けて日常が戻ってきていた。
 ただ季節外れの暖かい日が続いていた。南の窓からは陽射しが入り、ベッドが温もりでいっぱいだった。大の字でベッドに仰向けになっていたが、空は思い立って家を出た。
 公園に向かう。
 大きな常緑樹の下にある電話ボックス。
 テレフォンカードを入れ、ダイヤルする。
「あ、もしもし。俺、空。あけましておめでとう……」
 母親の声は、変わらず優しかった。
「母さん……母さん、戻ってきたら、どう?俺、父さんに話してみるから」空は続けた。母さんの好きな宮部みゆきの本が自分の部屋の押し入れにあったこと、今年は受験生だから頑張ること、お正月にお餅を沢山食べたこと……。
 

 

 

 

電話ボックスを出て歩く。
 少し猫背で歩く空の背中を、陽射しが包んでいた。