また純情へ

杜野(ヤマノ)  つばさ

 

  上京を機にこの街へ移り住んだ。

 

この街は、上京したばかりの僕にも優しかった。

なんとなくしっくりくる…上手く言えないけど、そんなところ。

お気に入りの商店街にある八百屋のご主人はよくおまけをしてくれて、奥さんは買った野菜の簡単料理を教えてくれる。

僕の住む「みどり荘」のご近所ヨシさんは、夕方時々路地にいて、親し気に話しかけてくる。

いつも可愛らしいTシャツを着ていて、それは孫からのプレゼントなんだと嬉しそうに話してくれた。

 

「元気かい?タカシ君」

「あ、僕、コウヘイです」

 そう言う僕を見てにこにこするヨシさん。

 というやり取りを、もう数え切れないほどしていた。

   これは故意なのか?タカシって誰なんだ?

   僕は面倒になってある日、はい元気です、と言った。

   そしたら、

「やっぱり!やっぱりタカシ君だった。良かった、良かった!」と、

  ヨシさんは目を輝かせて僕の腕を掴んできたので、僕はたじろいでしまった。

   面倒だからと安易に肯定してはいけなかったと、すぐに謝った。

   するとヨシさんはああと息を吐き、自分の家へ入ってしまった。

  その背中が寂しげで、僕はとても悪いことをしたと反省した。

 

数日後。

   ヨシさんは路地にいて、落ち葉を掃いていた。「こんにちは」と僕は声を掛ける。

「ほい、こんにちは。タカシ君元気か?」

 いつものようにヨシさんはそう言った。

「僕、浩平です」

   にこにこするヨシさん。いつものヨシさんに、僕は安堵した。

 

  この街で迎える何度目かの秋。時折吹く冷たい風に身を縮ませ、上着のポケットに手を入れる。

  教会脇にある大きな銀杏の樹を見上げる。黄色い葉が何枚か舞い落ちた。

  今日はおでんにしようと思い立ち、コンビニへ向かった。

 

「いらっしゃい」と松尾さんの声。そして眼鏡の奥の細い目を笑顔で更に細くして、僕に小さく手を振った。

  僕は笑顔で返す。

  店内を周りアルコールやお菓子をかごに入れ、レジ前のおでんの具を選ぶ。

  レジへ向かう、「おかえり」と松尾さんは微笑む。

 

初めてここへ来た時、僕の買ったお菓子を袋に入れながら、

このお菓子美味しいよねえと話しかけてきたり、

ライブのチケットを発券した時は、楽しんできてねと言ってくれたり。

松尾さんにとっては誰にでもしている事なんだけど、僕はとても嬉しくて…。

 

いつの間にか僕は、その日の愚痴を言うくらいに気を許していた。

  僕はバイト先の先輩の愚痴を吐いた。

「それはそれは。タカシ君も大変だ」

「え?」

  僕は思わず財布を取る手を止めて、松尾さんを見た。

「松尾さん、タカシって?タカシって誰?」

 

  バイトを終え、松尾さんと中通商店街のカフェに入った。

   あの日僕は、松尾さんが休みの日に会う約束をした。タカシという人物について話を聞くためだ。

   窓際のテーブルに座る。松尾さんは赤い手袋を外し、花柄の黒い小さな手提げバッグの上に置いた。

  風で乱れた髪をささっとなでる。僕は厚手の上着を脱ぎ隣の椅子の背もたれに掛けた。

   夕暮れ時、行き交う人は絶えない。女子高生、サラリーマン、ベビーカーを押す母親、スーパーの袋を下げた主婦。

  今日は、金曜日か…。僕はそんな人波をぼんやりと見ながら思った。

   そこへウェイターの声。

   ホットコーヒーを注文する。

「浩平くん、風邪引いてないかい?」松尾さんは言う。たわい無い会話をしていると、コーヒーが運ばれてきた。

一口二口ゆっくり飲んで、僕は松尾さんが話し出すのをただ待った。

 

「十年くらい前かな…タカシくんが商店街に来たのは…」

 

  小学四年生の崇(たかし)は、電車に乗るのが好きだった。

  自分の住む街から数駅のこの街へ、崇はよく来るようになった。

  母子家庭で母親の帰りが遅かったこともあるが、崇にも商店街の人々は優しかった。

  僕と同じくしっくりくる街だったに違いない。

「崇くんとヨシさん、飲み友達でさ」

「飲み友達?」

「そうそう。うちのコンビニで牛乳やらジュースやら買ってね、ヨシさんの家で宿題したり、家の前に椅子置いておしゃべりしてたよ」

「ああ、なるほど」

「ヨシさん息子さん亡くしてて。崇くんのこときっと、息子みたいに想っていたんだろうね」

「そうだったんだ…」

   あのヨシさんがいつも言うタカシという人物がやっと判明した。

  ヨシさんにとって崇は、とてもとても大切な存在だと改めて分かった。

 

  崇は進級し、もうすぐゴールデンウイークになる頃。

  夕暮れ、会社帰りの人通りが多くなる中、一人の女性が商店街を訪れた。

   それは崇の母親だった。長い黒髪をポニーテールに結い、色白でスラリとした長身の母親は、酷く傷心した顔つきだった。

   その日、学校から帰った崇が、行方知れずになった。

 

 崇の家では、下校してから外出する時は書置きをする決まりになっていた。

「書いてあったんですね、純情商店街って」

   松尾さんは頷き、その日の事を思い出しながら寂しげな表情で僕を見た。

  出来る限りを尽くし、松尾さんやヨシさんたちはこの街を捜した。

それからずっと、待ち、捜している。数年は母親が時折来ていたが、それも無くなった。



   この街の人は、きっとまた会えると信じ、待ち続けている。

「崇くんくらいの子には声を掛けるようになってね…。口癖でつい。ごめんね」

「松尾さん謝らないでください。僕のほうこそ、強引でした。ごめんなさい」

 

 

   松尾さんに崇の話を聞いてから、時々彼の事を考える。

   この街で会えたらいいな。

  いつしかそう思うようになった。

 

 

 

「崇くん、元気かい?」

   ヨシさんは夕陽に目を細めながら僕に言う。

   路地、家、ヨシさん、歩く猫、僕…オレンジ色に染まっている。

   僕は崇にはなれない。ヨシさんが僕に会う度にそう呼んでいても。僕は崇ではない。

だけど、ヨシさんと飲み友達にはなれるんじゃないかな。

松尾さんが、ヨシさんお酒好きだからって言ってたし。今度誘ってみよう。松尾さんも誘おう。

 

 

「僕は…」

   言いかけて言葉をきる、

「ヨシさん。崇くん、また純情へ来るといいですね」

   ヨシさんはにこにこして、頷いた。

 

 


  おわり