日向水
杜野(ヤマノ) つばさ
大学からの帰り道、最近見かけるようになった少年がいる。
よく晴れた午後だった。講義が終わり、いつものように駅まで向かう道沿いに、アカネハイツという二階建てのアパートがある。そのアパートの階段脇に、少年はしゃがみ込んでいた。ランドセルを背負ったまま、プラスチック製のすっかり色褪せた水色のバケツに手を突っ込んで、嬉しそうに微笑んでいた。その表情が印象的だった。
少年がアカネハイツに入って行く姿を見かけた時、ひどく年季の入ったブロック塀越しに、小さな子孫を見守る祖母のように、私はその一部始終を見届けた。ブロック塀からアカネハイツまで数メートルほど距離がある。右手にハイツ、左手に駐車場が拡がっている。敷地内は砂利なので、勢いよく車が出入りすると砂が舞った。
息を弾ませてバケツの脇にしゃがむと、少年はバケツを両手でそっと包むように触ってから、今度は片手をゆっくりとバケツの中へ入れ、ゆらゆらと動かしている。嬉しそうに微笑む、あの表情だ。ゆら、ゆら、と手を動かす度に、少年の顔が、きらりきらりと光った。バケツの中には水が入っているようだ。満足したのか、少年はすっと立ち上がって、北側のここからは死角になる玄関の方へ消えていった。
少年がそのバケツに立ち寄るのは晴れた日だけだった。時には数人の友達と、バケツに代わる代わる手を入れ楽しそうにおしゃべりしていた。
少年を見かけた日は、ただそれだけで得した気分がした。イライラだったり不安だったりする気持ちの帰り道に、少年の笑顔とよく晴れた春空を見ていたら、そんな事はすっかり小さくなっていたし、バケツの何かに毎回夢中になっている少年がとても愛おしく思えた。
そしてバケツに何があるのか、あんなに嬉しそうな表情の訳を、確かめたい気持ちが少しずつ強くなった。
「え、いない……」
今日こそ少年に直接尋ねてみようと決心して行き急いで来た為、私はすっかり拍子抜けし、思わず言葉が口をついて出た。
朝から快晴の木曜だ。南風が心地よく吹いて、時折私の髪を揺らす。諦め切れず辺りを見回しても、少年の姿はなかった。私は唇を噛みしめる。
階段脇の、色褪せたバケツが視界に入った。
私はそのバケツに向かって歩いていた。
砂利がスニーカー裏で音を立てる。
一歩一歩そのバケツに近づくにつれ、鼓動が速くなっていく。
バケツの前で立ち止まり、深く一息ついてから、私は中を覗いた。
中には水が半分くらい入っていた。水面が陽光を受けてきらきらしていて、私は目を細めた。
それだけだった。
バケツには水が入っているだけだった。
不意に難しいクイズを出されたみたいだ。
答えは……水です?
自信なく答えても正解を知っている少年はいない。私はため息をついた。
しばらくバケツの水を見つめていた。そのうち、少年がこのバケツへ駆け寄って来るはずだ。振り返り、アカネハイツの入り口を見つめた。答えを聞くまで帰らない。私は錆びた鉄筋の階段に座り、文庫本を出そうとリュックに手をかけた時だった。
トントントンと軽快な金属音がした。
見ると、階段を三十代くらいの男が降りてきた。これから仕事だろうか、黒い長袖のカットソーに紺の作業ズボンという恰好。
男は私と目が合うと、親し気な表情で話しかけてきた。
「待ち合わせ?」
「あ、ええと、バケツの」
私はあのバケツを指差した。そうかそうかと男は頷き、ニカッと笑いながら歩き出した。
そこへあの少年が走ってやってきた。男は見るなり少年の首に腕を回した。
「彼女が待ってるぞう」
男は言って少年の頭をぐりぐりすると、アカネハイツを出て左手に消えていった。
「もう」
少年は口を尖らせたが、すぐに目を輝かせてバケツに駆け寄ってきた。
「ひなたみず、ひなたみず!」
少年は私になど目もくれず、いつものようにしゃがみ込みバケツに手を入れてゆらゆらと動かした。
「ヒナタミズ?」
私は反復した。聞き慣れない言葉だった。
「うん。太陽をいっぱい吸い込んで、この水が元気になってんだ」
少年はバケツの中の手をゆっくり動かしながら、私を見た。
嬉しそうに微笑む、あの表情だった。
「雨の日と曇りの日はダメだよ。こうすると太陽が元気なのも分かるし……なんていうか、僕のちょっとした楽しみ」
少年は少しはにかみつつ、相変わらず手を突っ込んだままその感触を楽しんでいた。
日向水とは、太陽に当たって温まった水のこと。
朝カーテンを開けて晴れていたら、少年は急いで準備を始める。バケツに半分くらい水を入れて、良く陽の当たるいつもの場所へ置くのだ。日によっていろんな温かさがあって本当に面白いと、少年は熱心に話してくれた。
ただ汲み置いた水に答えがあったなんて思いもしなかった。
それから、少年の姿があると私は立ち寄って、しばらくその様子を見たり嬉しそうに学校のことを話す少年の話を聞いたりした。
「また飽きずにそれか」
二階に住む男は私たちの姿を見ると必ずやって来た。男は日向水に手を入れようとした。
「ダメ!絶対ダメ!朝からだよ、朝の水から!」
「ケチなこと言うな」
「絶対に、ダ、メッ」
少年は必死に男の身体を押してバケツから遠ざけていた。私から見ると、男と少年はじゃれあって遊んでいるみたいだった。お互い楽しそうだった。
アカネハイツのブロック塀沿いに沢山咲く菫の花が、踊っているみたいに風に揺れていた。
ある日の晴れた昼下がり。アカネハイツで、私は少年の横顔を見ていた。初めて見た時と同じ、嬉しそうに微笑む姿がそこにあった。私も日向水に触れてみたい、ふと思った。
「日向水、触ってみたい?」
「え」
私は口を押えた。今思っていたことが声に出たのかと驚いた。
「でも……やっぱり朝の水から。じゃあ明日晴れたら、日向水ね」
「分かった!」
私は嬉しくてどきどきしていた。今まで何度だって日向水に触れるチャンスはあったけれど、少年がいつも言う「朝の水から」ルールを破ることは出来なかったし、やっぱり私も、朝の水に触れてから日向水に触れたかった。
それが遂に叶う。
翌日、私は九時過ぎにアカネハイツに着いた。バケツの横には、石を乗せたメモが置いてある。
あさ わすれずに!
と元気な文字。
私はそっと手を入れた。水温を右手で確かめながらゆらゆらと動かした。ひんやりとした水が私の手の温もりを徐々に奪っていく。
この朝の水の記憶を忘れないようにしよう。今日の講義は上の空になりそうだ。
日向水
日向水
講義中、好きな人の名前みたいにノートに書いてみた。暇さえあれば、朝の水の記憶を呼び起こしていた。陽の当たる机に手をおいて、甲が柔らかな温かさに包まれていくと、日向水の温かさはどんなだろうと想像してみた。
太陽から、あの水は温もりをもらう。少年は水が元気になっていると言っていたけれど、あながち嘘じゃない気がした。太陽の光には自然エネルギーがつまっている。人間も太陽の光を浴びて身体や心が元気になることもある。少年は日向水からそれを感じている。少年自身も元気をもらっているに違いない。
私は立ち尽くしていた。
アカネハイツのバケツの前で。
バケツは水でいっぱいになっていた。容赦なく、雨粒が乱暴に水面を揺らしていた。少年の書いてくれたメモの文字が雨で滲んでいる。
お昼を過ぎたころから雨が降り出した。弱い雨で止みそうだったのに。今は、空にべったりと雨雲が張り付き、油断すると雨音に全てかき消されそうだった。
私はコンビニで買ったビニール傘越しに空を見ていた。指先が冷たかった。朝の水の記憶を、この雨はどんどん消していった。
後日、改めて少年と日向水の約束をしたのにまた雨が降り、梅雨に入ってしまった。
雨の日や曇りの日に少年の姿はない。あのバケツだけがそこにあった。それでも私はアカネハイツで足を止めた。
ある日、アカネハイツに少年の姿があった。
しとしとと静かな雨が降っている。青い傘をさしてランドセルを背負った少年は、逆さにして置かれたバケツを見つめていた。
少年の元へ駆け寄り私もバケツを見つめた。
「日向水、残念だったね」
少年は言う。
「うん。また梅雨が明けたら、お願いするね」
「また日向水、出来るかな」と呟いた少年の言葉は、私の耳には届かなかった。
梅雨が明けて、晴れた日のアカネハイツ。
なのにいつも少年の姿はない。バケツが逆さのまま置かれている。
まさか……
すると、聞き馴染みのある足音がして、男が階段を降りてきた。私は目を合わせて軽く会釈する。
「学……引っ越したよ」
やっぱり。
「そうですか」
「日向水、日向水ってな。晴れた日は嬉しそうに」
男は逆さのバケツを見て言う。
「あの、日向水触ったことありますか?」
男は大袈裟に右手を左右に振って見せた。
「ないない。触らせないからアイツ。何だっけな……あの」
「朝の水から!ですね」
「それそれ」
私は思わず笑った。男も笑った。
もうすぐ夏休みが始まる。バケツの水はとても元気な日向水になるに違いない。
少年の顔が浮かぶ。
嬉しそうに微笑む、少年の顔が。